「やらせる」から「したいと思う」という関わりへ

体罰と暴力の違いって何だろう?

どちらも暴力だと思っている。

どうして分けているんだろう?

昔、体罰をうけた経験のある

大人へのインタビューで、

「殴られて、目が覚めた」

「しごきが自分を成長させてくれた」

など、肯定的な意見を言う人がいる。

それは体罰によって

自分が大きな損失が無かったからである。

人は辛かったことや苦しかったことを

美化する傾向がある。

当時は嫌だったことも

それが過去になった時、

いい思い出にしようとする。

「あの時は苦しかったけど、いい思い出だよな」

と仲間と語るようになる。

そうしなければ、

辛かったことが、

無駄になってしまうと思うから。

体罰によって心に消せないキズを負ったり、

身体に障害を残してしまった人もいる、

ということを忘れてはならない。

「不便益」という言葉がある。

不便さが喜びを創り出す。

神社への参拝で気づくことがある。

神殿までの道のり。

沢山の階段、辛い。

苦難を乗り越えた先に神殿があるので、

ありがたさが半端ない。

意図的に造られているのか?

理にかなっているように思える。

コミュニケーションでも同様なことが言える。

すんなりと仲良くなった相手、

同じ苦難を乗り越えた相手、

親密度が異なる。

同じ辛い道のりでも

目的が、

明確な場合とそうではない場合は、

感情が異なる。

選手の受動的な行動は、

「苦しいし、辛い」

主体的な行動は、

「苦しいけど、辛くはない」

「やらせる」関わり方から、

「したいと思う」指導への転換が、

暴力的な関わりを無くすことにつながる。

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